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無政府主義のネズミ

「肉體的に大きかった小さかったという問題ぢゃない。信念の問題なんだ。その鼠は自分が鼠の形をしてゐるということを、猫という観念を被った仮装にすぎないと考へた。鼠は思想を信じ、肉體を信じなかった。猫とあるという思想を持つだけで十分で、思想の體現の必要は感じなかった。そのはうが侮蔑のたのしみが大きかったからさ。ところがある日のこと・・・」

・・・「ところがある日のこと、その鼠が本物の猫に出會してしまったんだ。

『お前を喰べるよ』と猫は言った。『いや、私を喰べることはできない』と鼠が答えた。『なぜ』『だって猫が猫を喰べることはできないでせう。それは原理的本能的に不可能でせう。それというのも、私はこう見えても猫なんだから』それをきくと猫は引っくり返って笑った。髭をふるはせて、前肢で宙を引っ掻いて、白い柔毛に包まれた腹を波打たせて笑った。それから起き上ると、矢庭に鼠につかみかかって喰はうとした。鼠は叫んだ。『なぜ私を喰はうとする』『お前は鼠だからだ』『いや、私は猫だ。猫は猫を喰うことはできない』『いや、お前は鼠だ』『私は猫だ』『それならそれを證明してみろ』鼠はかたはらに白い洗劑の泡を湧き立たせてゐる洗濯物の盥の中へ、いきなり身を投げて自殺を遂げた。猫は一寸前肢を浸して舐めてみたが、洗劑の味は最低だったから、泛んだ鼠の屍はそのままにして立ち去った。猫の立ち去った理由はわかってゐる。要するに、喰えたものぢゃなかったからだ。この鼠の自殺が、僕のいふ自己正當化の自殺だよ・・・「三島由紀夫天人五衰より』