硯の海

喪失の安心が清顕を慰めていた。彼の心はいつでもそういう働きをするのであったが、喪うことの恐怖よりも、現実に喪ったと知るほうがよほどましなのだった。

彼は聡子を喪った。それでよかった。そのうちにさしもの怒りさえ鎮められてきた。

感情はみごとに節約され、あたかも火を点ぜられていたために、明るく賑やかである代りに、身は熱蝋になって融かされていた蝋燭が、火を吹き消されて、闇の中に孤立している代りに、もう何ら身を蝕む惧れがなくなった状態と似ていた。彼は孤独が休息だとはじめて知った。

季節は入梅へ向かっていた。恢復期の病人がおそるおそる不養生をするように、清顕はもはやそれによって心を動かされぬことを試すために、ことさら聡子の思い出にかかずろうた。アルバムをとり出してむかしの写真を眺め、綾倉家の槐の樹の下で、いずれも胸からの白い前掛をかけて並んだ幼時の姿を見たが、すでに聡子よりも丈の高い幼ない自分に清顕は満足した。…

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