「夜明け前」第1部 上   島崎藤村著を読んで

 

この事件が報道されて、「座敷牢」が気になって本作を読んでみた、何だこれは、

凄く面白い!

木曽路はすべて山の中である。」から始まる木曾街道に関わる苗字帯刀御免を許され、本陣、問屋、庄屋をかねた由緒正しい家に生まれた青山半蔵、時は明治維新の青年の心の機微を木曽の風景と織り交ぜて情緒深く描写している、興奮して気に入った箇所を書き出してしまった 笑

「子供等は街道に集まっていた。夕空に飛びかう蝙蝠の群を追い廻しながら、遊び戯れているのもその子供等だ。山の中のことで、夜鷹も啼き出す。往来1つ隔てて本陣と向かい合った梅屋の門口には、夜番の軒行燈の燈火もついた」

 

「半蔵さま、お前さまは何も知らっせまいが、俺はお前さまのお母さまをよく覚えている。お袖さまー 美しい人だったぞなし。あれほどの容色は江戸にもないと言って、通る旅の衆が評判したくらいの人だったぞなし。あのお袖さまが煩って亡くなったのは、あれはお前さまを生んでから二十日ばかり過ぎだったずら。」

「年もまだ若く心も柔かく感じ易い半蔵なぞに、今から社会の奥を覗かせたくないと考えた。いかなる人間同志の醜い秘密にも、その刺戟に耐えられる年頃に達するまでは、ゆっくり支度させたいと考えた。」

「店座敷は東向きで、戸の外には半蔵の好きな松の樹もあった。新しい青い部屋の畳は、鶯でも啼き出すかと思われるような温暖い空気に香って、夜遊び1つしたことのない半蔵の心を逆上せるばかりにした。彼は知らない世界にでも入って行く思いで、若さとおそろしさのために震えているようなお民を自分の側に見つけた。」

 

「おまんは襷掛けになって、お民を古風な鏡台に向わせ、人形でも扱うようにその髪をといてやった。まだ若々しく、娘らしい髪の感覚は、おまんの手にあまるほどあった。「まあ、長い髪の毛だこと。そう言えば、わたしも覚えがあるが、これで眉でも剃り落す日が来て御覧ーあの里帰りというものは妙に昔の恋しくなるものですよ。もう娘の時分ともお別れですねえ。女は誰でもそうしたものですからねえ」おまんはいろいろに言って見せて、左の手に油じみた髪の根元を堅く握り、右手に木曽名物のお六櫛というやつを執った。額から鬢の辺へかけて、梳手の力がはいる度に、お民は眼を細くして、これから長く姑として仕えなければならない人のするままに任せていた。」

 

「遠くかすかに鳴きかわす鶏の声を谷の向うに聞きつけることは出来た。まだ本堂の前の柊も暗い。その時、朝の空気の静けさをひと破って、澄んだ大鐘の音が起った。力を籠めた松雲の撞き鳴らす音だ。その音は谷から谷を伝い、畠から畠を匍って、まだ動きはじめない村の水車小屋の方へも、半分眠っているような馬小屋の方へもひびけて行った。」

 

「ある一転機が半蔵の内部にも萌して来た。その年の三月には彼も父になって居た。お民は彼の側で、二人の間に生れた愛らしい女の児を抱くようになった。お粂というのがその児の名で、それまで彼の知らなかったちいさなものの動作や、物を求めるような泣き声や、無邪気な欠びや、無心なほほえみなぞが、何となく一人前になったという心持を父としての彼の胸の中に喚び起すようになった。その新しい経験は、今までのような遠いところにあるものばかりでなしに、もっと手近なものに彼の眼を向けさせた。」

 

「生みの母を求める心は、早くから半蔵を憂鬱にした。その心は友達を慕わせ、師とする人を慕わせ、親のない村の子供にまで深い哀憐を寄せさせた。彼がまだ一八歳の頃に、この馬籠の村民が木曽山の厳禁を犯して、多分の木を盗んだり背伐りをしたりしたという科で、村から六十一人もの罪人を出したことがある。その村民が彼の家の問内に呼びつけられて、福島から出張して来た役人の吟味を受けたことがある。彼は庭の隅の梨の木のかげに隠れて、腰縄手錠をかけられた不幸な村民を見ていたことがあるが、貧窮な黒鍬や小前のものを思う彼の心は既にその頃から養われた。馬籠本陣のような古い歴史のある家柄に生まれながら、彼の眼が上に立つ役人や権威の高い武士の方に向わないで、いつでも名の無い百姓の方に向い、従順で忍耐深いものに向い向いしたというのも、1つは継母に仕えて身を慎んで来た少年時代からの心の満たされがたさが彼の内部に奥深く潜んでいたからで。この街道に荷物を運搬する牛方仲間のような、下層にあるものの動きを見つけるようになったのも、その彼の眼だ。」

 

「寿平次さん、御覧なさい。もうよく笑いますよ。女の児は智慧のつくのも早いものですねえ」

 

「福島の関所は木曽街道中の関門と言われて、大手橋の向うに正門を構えた山村氏の代官屋敷からは、河一つ隔てた町はずれのところにある「出女、入り鉄砲」と言った昔は、西よりする鉄砲の輸入と、東よりする女の通行をそこで取締った。殊に女の旅は厳重を極めたもので、髪の長いものはもとより、そうでないものも尼、比丘尼、髪切、少女などと通行者の風俗を区別し、乳まで探って真偽を確かめたほどの時代だ。これは江戸を中心とする参勤交代の制度を語り、一面にはまた婦人の位置のいかなるものであるかを語っていた。」

 

「ちょうど鳥家のさかりの頃で、木曽名物の小鳥でも焼こうと言ってくれるのもそこの主人だ。鳥居峠の鶫は名高い。鶫ばかりではなく、裏山には駒鳥、山郭公の声が聴かれる。仏法僧も来て鳴く。ここに住むものは、表の部屋に向うの鳥の声を聴き、裏の部屋にこちらの鳥の声を聴く。そうしたことを語り聞かせるのもまたそこの主人だ。」

 

「旅の空で寛斎を待ち受けた珍客は、喜多村瑞見と言って、幕府奥詰の医師仲間でも製薬局の管理をしていた人である。汽船観光丸の試乗者募集のあった時、瑞見もその募りに応じようとしたが、時の御匙法師に睨まれて、譴責を受け、蝦夷移住を命ぜられたという閲歴をもった人である」

 

「先生、肉が煮えました」

「ほ」と正香は眼をまるくして、「君はめずらしいものを御馳走してくれますね」「これは馬籠の酒です。伏見屋と桝田屋と、二軒で今造っています。一つ山家の酒を味わって見て下さい」「どうも瓢箪のように口の小さいものから出る酒は、音からして違いますね。コッ、コッ、コッ、コッーか。長道中でもして来た時には、これが何よりですよ」まるで子供のような歓び方だ。

 

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